傍に居るなら、どうか返事を


 時刻は、随分と前に深夜を過ぎていた。
 窓の外も閑静な住宅街という立地上、しんと静まりかえっている。
 上品な佇まいの弁護士事務所は、訪れる人間を値踏みしているともとれる立派なものだ。所長の名前は『牙琉霧人』という。法曹界ではかなり名の通った人物で、その佇まいに負けず劣らない優雅な物腰と、相反するような明晰な頭脳で数々の勝訴を勝ち取っている有能な人間だ。
 しかし、今の時間、此処に彼の姿はない。
 事務所に勤めている人達も皆仕事を終えて帰宅している。綺麗に整えられた事務所の中も、月明かりに照らされるのみで沈黙を保っていた。
 それは、遠くに聞こえる単車のエンジン音がふいに途切れるまで変わることはなかった。それは、側を通っている幹線道路まで乗ってきたものの、住人が寝静まっている深夜には迷惑だろうという心遣いだろう。迷惑運転をする類の機械音では無いが、そこまで気を使うというのも、なかなか出来ないものだ。
 硬質ではない足音が踏みしめる様にゆっくりと聞こえてくる。スタンドを立てる小気味よい音の次には、カチャリと金属音が響き、ゆっくりと扉が開けられた。
 セキュリティ解除を示す緑のランプが、玄関を入って直ぐの応接室を照らす。

「兄貴、いないの?」
 
 扉から顔を覗かせたのは青年というにはまだ年若い、少年と呼んでも差し支えない人物だった。夜間でも使用可能なオレンジ色のサングラスをずらして、室内を観察する表情も、まだ幼い。
 胸元や指先を飾るシルバーの装飾品が彼が動く度に光を反射している以外は、服装の色は漆黒で、身体の輪郭を闇に紛れさせる。しかし、肩に掛かる色素の薄い髪は、街灯の明かりを拾って輝いて見えた。

「兄貴?」

 もう一度問い掛けて、ふっと口元から息が漏れた。
落胆の溜息だろうか、ゴソゴソと壁を手で触れる音が聞こえて、部屋は彼が押したスイッチによって、天井に設置されている蛍光灯から白く照らされる。
 そして、彼が息を飲むのが見えた。

「眩しいなぁ…。」

 応接室の長椅子に悠々と寝そべっていた成歩堂は、胸の前で組んでいた両手を解き、片腕で両眼を覆った。
「誰だ、アンタ。」
 警戒しきった強ばった声が聞こえて、腕をずらして玄関に視線を向ける。声同様に、固く強ばった表情の青年−牙琉響也−が、兄の事務所にいた珍客に剣呑な視線を送り付けていた。腕で顔を隠した状態で、成歩堂はゆっくりと上半身を起こす。
「……何が目的だ。」
 途端に聞こえてきた鋭い言葉に感心した。
 こういう場面、大概の人間は最も必要な事を聞かず、陳腐な事を口走る。例えば(どうやって此処に入ったんだ)なんて台詞だ。
 見知らぬ他人と顔をつき合わせて、まず注意を払わなければならないのは相手の心理。自分に対して危害を加えるものなのか、そうではないのかが最大の問題なのだ。
 機転も利く、度胸もある。本当に頭の良い子なのだろう。
 成歩堂は、くと口を綻ばせてゆっくりと腕を降ろしてやる。それでも、響也は不審な表情で暫く珍客を見つめていた。
 だぼだぼの薄汚れたパーカーに、ニット帽。ジーンズも擦り切れて、顔には無精髭が蔓延している。浮浪者と間違えられても仕方ない自分の格好を思い出し、記憶が一致しないかと苦笑した。法廷での印象は、やはりスーツ姿なのだろうから。

「あっ…。」

 小さく声が上がり、響也が口元を抑えるのがわかった。あからさまな動揺が、端正な貌を覆う。
「成歩堂…龍一…。」
「年長者を呼び捨てにしちゃあ、いけないなぁ、響也くん。」
 ギシリと音をたててソファーから腰を上げた成歩堂に、はっと気付き、未だ開いたままの玄関に向かい踵を返した青年の身体を、後ろから抱きすくめた。
「不法侵…っ!」
 叫び声が静寂の中に放たれる前に、口を手で塞ぐ。成歩堂は見た目よりも細い身体を前から押さえつけるようにして手首を掴み、玄関の扉を蹴り返した。
 オートロック式になっている扉がガチャリと音をたてて締まる瞬間、腕の中でビクリと震えるのがわかる。
「響也君。」
 呼びかけると、必死で身を捩るのが面白い。悪戯心がむくむくと沸き上がってはくるものの、此処で下手な誤解を受けてもつまらないと、成歩堂は(モチロン自分基準だが)可能な限り優しい声で耳打ちをした。
「ごめん、ごめん。大声を出されたら近所迷惑だからね。僕の話を聞いてもらえるのなら、手を放すから。」
 暫く間があってから示された同意を受けて、響也の口を解放する。離れていく柔らかな唇の感覚に、惜しいと感じる親父臭さに苦笑する。少なくとも、この青年は自分にとってそういう対象には成り得ないだろうに。
 助けを呼んだりしないことを確認して、成歩堂は完全に相手の身体から手を放した。その反動で蹌踉めくように足を踏み出した響也に向かって、咄嗟に差し伸べた手は、彼の手で弾かれる。射すくめる様な強い瞳が、成歩堂を睨む。
「なんで、アンタが兄貴のとこに…。」
「牙琉から聞いてないのか? 僕とお兄さんは友人なんだよ。」
 本気で虚を突かれた表情になった響也は、ぽかんと口を開けたまま固まっている。無防備が姿は、あの裁判で一瞬見せた幼い言動を成歩堂に思い起こさせる。
「今日だって、ほら。牙琉が出掛けてくるからって留守番を言い遣って待ってたんだ。無理矢理侵入しようとしたって、警備会社が飛んでくる事くらい、君にも想像はつくだろ?」
「…。」
 開けた口を又閉じる。そして、また薄く開く。金魚みたいに何度もパクパクとした挙げ句に、響也は成歩堂に興味を失ったようだった。
 ついと、彼の横を通り過ぎて、今まで成歩堂が横になっていたソファーに腰を降ろす。そして、テーブルの上に山積みになっているグレープジュースの瓶を見て、思いきり顔を顰めた。
「…で、兄貴は何時帰るって言ってたんだ?」
「さあねぇ。何せ、待っているならそれでも良いですよ。…ってな言い方だったからね。」
「あ、そ…「響也君は、どうして此処に来たんだい?」」
 にこにこと精一杯の愛想を顔に貼り付けた成歩堂に、響也は一言『胡散臭い』と言い放った。  


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